社員教育には、お金も時間もかかるものです。しかも、教えてからすぐ一人前になるとは限りません。そのため、とりわけ中小企業は社員教育には注力しづらく、行き当たりばったりのOJTで済ませてしまっているパターンが多いのではないでしょうか。
しかしながら、現場に出て“見て覚えろ”が当たり前の職人の世界で、社内研修を重視した教育に取り組んでいる企業も存在します。東京・千駄木にある 有限会社原田左官工業所では2010年から、左官職人の動きを動画で学ぶ「モデリング学習」を始めるなど教育改革をスタートしました。その取り組みは、経済ドキュメンタリー番組「ガイアの夜明け」(テレビ東京系列)などでも取り上げられ、左官業界だけではなくさまざまな業界から注目されています。
なぜ、左官職人の世界で教育改革が必要だったのか。そして、教育に取り組むことでどのような効果を得ることができたのか、代表取締役社長・原田宗亮さんにインタビューしました。
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「見て覚えろ」では職人は減るばかり…原田左官工業所の育成の原点

原田左官工業所は伝統の技術を継承し新しい工法を取り入れ、常に夢とロマンを持って仕事にあたる技術者集団。店舗内装から一般住宅の左官工事、タイル工事を扱う。
仕事が減れば当然、職人の数も減ってしまいます。しかも、かつての左官業界は100人入社しても数人しか残らないほど、離職率が高かったといいます。
ただし、悪い話ばかりではありません。左官は漆喰(しっくい)や珪藻土(けいそうど)など自然由来の材料を使うことが多く、空気環境を整える効果も認められ、シックハウス症候群などを引き起こす心配も少ないなど、ここ最近は左官職人の仕事が見直されてきています。そのため、左官の仕事に関心があり、「職人になりたい」という人も増えています。意欲ある若者が、途中で挫折することなく一人前になるまで育てたい。原田左官工業所では教育の重要性を感じ、教育の仕組みづくりを始めました。
「会社で遊んでいるだけじゃないか!」教育に反対する声を結果でねじ伏せるために
現場で覚えることが当たり前だと考えているベテラン職人たちは、原田さんが社員教育をすることを最初はあまりよく思っていませんでした。日給月給の職人の世界は、現場に出てなんぼ。新人であっても現場で手伝いをすれば、それなりに生産性にプラスになっていると職人は考えていたのです。新人が会社で教育を受けている間は何も生み出していないとすら思われていました。
社員教育が認められるようになったのは、いきなり現場に連れ出された新人よりも、一通りの教育を受けてから現場に入った新人のほうが、仕事の覚えもスムーズだということが理解されてから。いつしか、「ウチの新人はほかと違うから」とベテランの職人が新人を自慢するほど、教育に対する考え方が変化したそうです。
一流の職人の動きを真似る「モデリング」で左官仕事の基礎を体に染みこませる
原田左官工業所が新人の現場力を高めるために行うのは「モデリング」と呼ばれる教育システム。ゴルフのレッスンビデオのように、お手本を真似ることで塗り方の型(かた)を固めることが狙いです。実績のある職人の動きを見て、真似をして、体に染み込ませます。
さらに、左官職人の動きを真似るのと同時に、自分がどのように動いているのかを背後から作業の様子を撮影した映像を見ることで、お手本とのギャップを確認します。壁を塗るときの動きを後ろから先輩に見てもらい、塗るときのリズムや動きのコツをアドバイスしてもらうことも。モデリングの効果はてきめんで、鏝(こて)の扱いがぎこちない新人も、数日で見違えるほど成長するとのこと。

お手本の動きと自分の動きの違いを確認するために、背後から作業の様子を撮影している
左官の現場は一つとして同じ条件のものはありません。壁の大きさも、使用する材料も違えば、砂の水分の含み具合をみて配合を調整するなど、天候によって材料の配分を変えることもあります。このあたりは現場で経験を重ねて体で覚えていくしかできない、まさに職人仕事の領域。一生をかけて極める仕事だからこそ、できるだけ早くスタートラインに立たせることが大切なのです。
新人教育は計画的に行い、一人前になったら盛大に祝う
社員教育の重要性は感じているけれど、業務が落ち着いているときしか教えられないという会社も多いのではないでしょうか。かつての原田左官工業所も同じでした。
4月から7月の比較的業務が落ち着いている時期に訓練期間を設け、それを会社のスケジュールに組み込みます。訓練期間は「訓練も仕事」という意識で取り組むそうです。そして、着実に技術を学び、経験を積みながら、4年で一人前の職人を目指します。
職人の世界では、一人前になることを「年季が明ける」と言います。原田左官工業所では、一人前になった職人を祝う会を「年季明け披露会」と呼び、今までは居酒屋などでちょっとした打ち上げ会のように開催していたそうです。原田さんが社長になってからは、ホテルなどの会場で、社員全員で盛大に祝うようになりました。

年季明け披露会はホテルの宴会場を借り、花束贈呈を行うなど、盛大に行っている

1年間の軌跡を写真でまとめた「メモリーブック」。成長の跡がはっきりとわかるとのこと
年季明け披露会では、一人前になった職人とその家族も招待されます。記念品として渡される「メモリーブック」には、一人前になるまでの成長の軌跡が写真で納められています。もちろん社員を祝うことが目的ですが、会社への帰属意識も高まる取り組みと言えるのではないでしょうか。
左官業界の未来のために、若手左官職人を8社合同で育てる
職人を大切に育てる取り組みが実り、原田左官工業所は50%近かった離職率を5%まで減らしました。しかし、左官業界の後継者育成問題が危機的状況であることには変わりませんし、1社のみで行う活動には限界があります。繰り返しになりますが、左官職人全体の平均年齢は60代、全体の4割をその60代の職人が占めるという、まさに待ったなしの状況なのです。
単に技術を習得できるだけではなく、新人同士の交流が生まれることも大きなメリット。というのも、現場では10代、20代の新人の先輩がいきなり50代、60代ということもあり、ジェネレーションギャップが非常に大きいという問題もあるからです。

東京左官技能者育成協会の訓練施設で行われている見習い職人たちの合同訓練会の様子
東京左官技能者育成協会の訓練施設は、職人を育てるだけではなく、切磋琢磨できる仲間たちとの出会いの場の役割を持っています。ただ技術を教えるだけではなく、「新人を孤立させない」ことは、左官職人だけではなくすべての業界に通じる考え方かもしれません。
左官業界を盛り上げるという大きな目的のために、自社だけではなく左官業界を巻きこんで職人育成に取り組んでいる原田さん。ただし、社会貢献のためだけに教育をしているわけではありません。社員教育はもっとも効率のいい投資だといいます。

一日でも早く一人前の若い職人が誕生できる職人業界になるために
教育こそ中小企業が成長するためのカギになる
「教育力=稼ぐ力」は、左官業界に限った話ではありません。電気設備会社、建築会社、旅館など、教育の重要性に気づいた多くの企業が、原田左官工業所に視察に来ているそうです。教育はコストであるだけではなく、リターンのための重要な投資。ただし、成果が出るまでには時間がかかり、これを先行投資と捉えられるかが、中小企業の成長のカギになるでしょう。これから成長を目指す中小企業こそ、社員教育を手厚くすべきなのかもしれません。